2021.08.21
生まれ育った地域で繰り広げる、道明寺MONZENプロジェクト。どのような想いで取り組みを進めているのか、まちづくりに関わる幼なじみ同士の2人に前編・後編にわたり聞きます。前編は藤井寺球場や商店街での思い出や活気あふれるまちの可能性について。
――まずはお二人の出会いから聞かせてください。
森田:小学校からの同級生。
西村:僕が小学3年生の時に引っ越してきて。そこから遊ぶようになったかな。
森田:僕らの時代は野球が多かったね。
――野球は何世代ですか?
西村:オレは王・長嶋(巨人)。
森田:オレは何も疑うことなく野村克也(南海ホークス)やね。ドカベンはひとつ先輩で。
――地元の藤井寺球場は?
森田:藤井寺は近鉄バファローズの本拠地やったからねぇ……。ま、南海ホークスが来たときは観に行きましたよ。
――当時は断然野球が流行ってたんですよね。
西村:友達と出くわしたら、道具やグラウンドがなくてもそこで野球が始まるみたいな。三角ベースとかね。
森田:昔は空き地がたくさんあって、稲刈りの後の田んぼでも、駐車場でもどこでもやってたよ。今は怒られそうやけどね。
――森田さんは、ずっと道明寺に?
森田:江戸時代までさかのぼれるんやけど、少なくとも4代前にはこの道明寺にいました。
――道明寺が「河内の春ごと(菜種御供大祭)」などで賑わってた時期には、すでに森田家は道明寺にあった、と。
森田:そうです。ウチの店の裏、ひとつの区画の中に4軒もの料亭があったんですよ。
――えー! あのエリアに4軒って、それぞれとても大きなお店だったってことですよね。
森田:そうそう。桃太郎、千石、菊水、梅廼家。桃太郎なんかは娼妓も揚げて遊べるお店で。この界隈にもそういったにぎわいがありました。
森田:現在の商店街(駅から道明寺天満宮を結ぶ)はそれほど古くなくて。僕らが小学校に上がる前に、天満宮のすぐ脇の池を埋め立てた「天神の森」という新興住宅地ができたんです。その住宅街に居住者が流入してきたタイミングで、現在の駅-天満宮への商店街ができたはず。
西村:商店街は小学三年四年のころにはできてたんじゃなかったな。子供だからあんまり商店街に用事はなかったけど。遊ぶのはもっぱら天満宮か道明寺。地面が土だったので、穴を掘ったり釘で線を引いたりできるから、ビー玉、足の陣地取り、ケンパとかやって遊んでましたね。
――昔は道明寺天満宮に夜桜見物もありましたよね。
森田:あったね。まだうちがコンビニになる前の酒屋の頃に、よく走らされましたよ。あの頃は瓶ビールしかなくて。花見の酔っ払いは容赦がないので(笑)「今すぐ持ってこい!早よせえ!まだか!」と、どやされて店から天満宮への配達に駆り出されてました。
――今と比べて昔の道明寺エリアはどうでしたか?
森田:まず人が多かった。サントリー(道明寺工場)、三元バルブ(製造株式会社)がそばにあって、玉手の中小企業団地も元気で、玉手山遊園地が子供たちで賑わっていてね。
西村:玉女(のちの関西女子短期大学)のスクールバスも道明寺から発着していたので、学生もたくさんいて活気に溢れていましたね。
――最近の道明寺はどうですか?
森田:最近では、商店街にベトナムのお店がいくつもできたりして、昔とは違う新しい流れが生まれていますよね。阪南ジャンボハイツあたりから玉手橋を渡って道明寺商店街へ、の人の流れができていて、なかなか面白いことになっています。
アサノヤ縁側の碁盤では、大西洋カーボベルデに伝わるボードゲームを見よう見まねで。森田さん優勢です。
と、前半はここまで。
僕は、かつて活気のあったエリアにはどこでも「にぎわいの地霊」とでも呼ぶべきものがいる、と信じている。
かつてにぎわいを生んだ場所は、たとえ今が廃れていてもそれはスリープ状態のように寝たふりをしているだけで、環境の作用によって再びにぎわいが再興しやすくなっているように思えるのだ。
昔とったナントカ、三つ子の魂ナントカ、とか。そーゆーやつ。ちがうか。しらんけど。
かつて栄えて盛り上がったエリアというのは、今は時を経てすっかり古老のようなフリをしているが、またカタチを変えてにぎわいを生むチカラを基礎体力的に奥に秘めている。
水の枯れた路地に。夏草だらけの廃屋に。
にぎわいの地霊は、まだ生きている。
(聞き手 ASANOYA BOOKS 高山純)
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<MONZEN対談 後編>それぞれの想いが重なって進化していくプロジェクト
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